異に陥ることを歎く

今日は振休の前取り。
ここんところ気温が急に下がったせいか、変化についていけず身体がダルビッシュ

吉本隆明を読んでいたら親鸞にぶつかったので、読む↓

歎異抄 (光文社古典新訳文庫)

歎異抄 (光文社古典新訳文庫)


親鸞と言えば「悪人正機」が有名。
かつて無駄にストイックだった純情息子時代、


『善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや』


の一説を以ってその考えに嫌気が差してしまったものですが、これ、「悪人」の意味が違ったのですな。



そもそも此処で言う善悪の基準は、法や倫理ではなく、"仏"に拠るものなのだそうです。
となれば、"仏"の言葉を聞く事ができる人間がいない限りは、誰にもその基準は立証し得ない。


ってこたぁ、人間が多少なりとも俗欲を持つ者である前提に立てば、「善人」は存在しない。
だからここでは全員「悪人」なんです。
つまり、「悪人でも救われる」ということの本意は、


"どうしようもないと思った瞬間があっても、「南無阿弥陀仏」って言ってれば救われるのよん"


ってこと(たぶん)。


この教えは、しばしば「進んで悪事していいんだ」という大義名分の対象になってしまうそうなのですが、
これは親鸞本人も嘆かわしいことだと言っているようです。



ふむふむ。


それでもなんか、肩が軽くなる考えのような気がした。
「みんな悪人でしょ?」
って言われると、
「あ、俺もこれでいいのかな」
って思えちゃう。



また、こんなことも書いてました。


"念仏とは、作為性を以って行うものじゃない。それはなんとも呼べないし、説明もできないし、考えたりするもんでもない。"


俺は走るのが昔から大嫌い(でも多少速かった)だったんだけど、
それは「どうやったら早くなるか」とか「どうやったら苦しくなくなるか」とかしか考えてなかったからなんだなと思えた。


"走った結果、速かった"
これには因果が存在する。
厳しいトレーニング→速かった


"走った結果、楽しかった"
これに因果なんて存在しない。



人生楽しむコツもここにあんだよね、たぶん。
それを自然(じねん)に任せてしまったら、楽しめない場合どうすりゃいいの!って、また因果論に落ちちゃうんだろうけど…。
そう考えると、自然(じねん)でいける人と因果でいくしかない人に分かれちゃうのかしら。。。
だとしたらそれは悲しい差かもしれん。



今日もCD借りてきた。

STONE ROSES

STONE ROSES

Emperor Tomato Ketchup

Emperor Tomato Ketchup